優しい世界の中で自分は死ぬ
記事のまとめ
病んでると思われそうな思想の話。
過度な優しさで欲求が操作されて意志が無くなりそうな不安を抱く。
他人への優しさを歪めて
他人の為、というものが苦手です。
社会人として非難される発言なのかもしれませんが、信用と信頼といったフレーズを見ると息苦しくなってきてしまいます。
他人への行動全てが自分に返ってくる。
だから、他人に優しくしよう。
とても美しい言葉だと思います。
けれど、その言葉の奥に「全ては自分に返ってくるはず」という言葉が見え隠れするのです。
また、他人から親切にされた時も。
無言で優しさの見返りを要求されている感覚に陥って、まとわりつかれているように感じます。
他人から生きることを許可される
人の営みは信用と信頼で成り立っており、それらは他人にしか付けることの出来ない評価となります。
大げさに言えば、生きて良いかという判定を他人にしてもらっている訳です。
それで大抵の人には生きたい欲求があるので、他人から信用と信頼を得たいという行動に繋がります。
その結果として、他人に優しくしようというフレーズが出てくるのです。
果たして。
この説は自分の勝手な思い込みでしょうか。
優しさの先の自己喪失
先の説から自分の思想の話になりますが、他人によって生きることを許される社会って気持ち悪いです。
誰かによって認められなければ自分が存在することは出来ず、まるで自分の力で自分を証明することが出来ないでいるかのようです。
他人へ優しさを提供するに伴い、自己の欲求は押さえ込まれるのではないかという不安を抱いてしまいます。
他人の存在を軸にした優しさ溢れる社会は美しく見えます。
しかし、そこに自分の意志は存在するのでしょうか。
自分が優しさを苦しく感じるのは、この危惧か原因なんだろうと思います。
以上、病んでると思われそうな思想の話でした。