マキめも

日々の思考と感情の雑記帳。

死にたいという感情を正しいと認める

記事のまとめ

生きていることが当たり前になった社会で死を求めてしまう心理は正常ではないか。

 

 

生きていることが当たり前になった社会

 

人類は日々生き残る為に試行錯誤してきました。

時に、地震や嵐といった自然の力に倒されながら。

時に、侵略や戦争で大量殺戮を引き起こしながら。

それでも人類は、生きることを願い続けてきました。

 

生命あるものが生きることを選ぶのは当然かもしれませんが、ここまで大規模な実験を繰り返してきたのは人類以外にないでしょう。

少しでも長く活動したいと努力し続けた歴史は、現代の社会制度(法律など含む)という形で結果を生みだしています。

国や地域によって差があれど、「生きていることが当たり前になった社会(簡単に死なない社会)」になったことは素晴らしいことです。

しかし、その社会が今までと異なる生命観を生み出しているのではないかと感じています。

(根拠ある主張ではなく感じたことになります、ご了承ください)

 

 

 

生きることの価値が落ちゆく中で自ら死を選ぶ人

 

異なる生命観というのは、自ら死を選ぶということです。

その選択からは、社会構造と生命観がどんどん複雑に絡み合う様が感じ取れます。

 

死を選べる環境というのは、生きることが出来る状態にある環境に置かれているというのが前提です。

そして現代は、医療技術の発展や社会福祉制度が整ってきたことで自動的に生きることが選択される時代となりました。

そんな生命活動の維持が比較的簡単になった時代において、生きることの価値が過去と同じであるかと問われると、やや落ちてきているのではないかと思います。

難病や障害を抱えている方に向かって大声で言いにくいですが、今の日本では大半が「自らが明日死ぬかも」なんて意識せずに過ごしているのですから。

 

そして、この社会の仕組みは「誰かが誰かを支える」という形で成り立っています。

会社や政治といった組織を整えたことで、自分で自分(と身内)を支える仕組みから少数で多数を支える仕組みになりました。

つまり、1人が背負う命の数が多くなっている訳です。

となると、その日々重さを増していく命を維持し続けることは、果たして自分(他人)へのメリットになるのかという疑問が浮かんできます。

 

また、誰かが誰かを支える仕組みが出来てしまった為に、他者の評価に基づいて自分を評価する考え方が中心になっているように見えます。

これは自分は他人にメリットを与えられていないと感じると本人の中で生きる価値が下がってしまう、つまり、自分で自己を肯定できないことに繋がってしまうのではないでしょうか。

そうなると死の価値が相対的に上がり、その道を選んでしまうようになってしまうのかもしれません。

 

 

他人の為という使命を背負う

 

他人の為であることを求められる仕組みを選んだ人類は、生命維持がし易くなった反面、動き続けなければならない使命を背負ってしまったように思います。

 

その簡単な例は、労働です。

昼夜他人の為に働き続ける環境は、社会組織が作られる前では考えられないことでした。

それが今では、定年延長や副業解禁などで、どんどん働くことが進められています。

この流れを見ていると、年金などの社会福祉が崩壊の足音が近づいているから、もっと他者に貢献することで自分で生きる価値を引き上げなさいというメッセージが込められているように思います。

となると、生きることには他人の承認(評価)が必須であり、それが感じられなくなってしまったらポキッと折れてしまうのではないでしょうか。

 

 

出口は見えない

 

今の自分には解決策を見出すことは出来ませんし、むしろ死を選ぶ思考回路は正常な反応なのではないかと思っています。

ただこれは、人間が人間を支える社会においてです。

 

AIや機械技術の進歩により、機械が人類を支える時代になったらどうなるか。

そこに希望を見出して、暫く生きてみようかと思っています。