日本の価値観が遅れているは適した表現なのだろうか
ネット上を彷徨っていると「日本は遅れている」「海外は○○で素晴らしいから日本も見習え」なんて意見をよく見かけます。
少し前には「日本死ね!」なんて言葉も話題になりました。
しかし、この「価値観が遅れている(見習うべき)」という表現に違和感を感じることがあるのです。
ここ100年の間に、世界各国は急激に距離が縮まりました。
飛行機で現地に行くことも、SNSや通話アプリでコミュニケーションを取ることも、いとも簡単に出来る時代です。
そうすると流れとして、何かしらの価値観の調整が発生します。
ここでの調整とは、歴史的背景の理解と互いの背景に基づいて妥協できる付き合い方の模索を指します。
第二次世界大戦が終わった時、力を持っていたのは欧米諸国です。
つまり、西洋文化の「合理化と支配」が中心の世界。
その流れに従って、欧米諸国以外の国々も西洋文化の教えを飲み込んでしまった。
そして、東洋文化を持つ日本で「消化しきれなかった西洋文化」が「日本の価値観の遅れ」と表現されているだけにすぎないのではなかろうかと思うのです。
西洋は「個」を中心にした考え方で東洋は「家」を中心にした考え方にあるのは、よく言われる話ですよね。
元々が「家(組織、集団) 」を中心にした考え方の文化だったところに、突然「個」の考え方を取り入れたところで上手くいくはずもありません。
例えるなら、教科書は「個人主義」を示しているのに、実社会の仕組みは「集団主義」だったみたいなズレ方をしているような感じです。
だから価値観を進退で表現して嘆くのではなく、価値観と仕組み(文化)のズレに気づいて近づけていく方向に舵を切るべきではないでしょうか。
歴史的にも地理的にも異なる背景を持つからこそ、各国にとって「都合の良いこと」って違うはずです。
だからこそ、国同士の距離が近づくにつれて「価値観の微調整」をすべきではないかと思います。
これは国に限らず、政治や組織にも通じる話ですよね。
過労死、セクハラ、少子化、IT革命、貧困格差…。
今の日本が抱える問題は様々です。
1人1人思うところは異なるかもしれませんが、まずは問題に興味を持って声を上げることが始まりなのだろうと思います。
そして、声を上げる時に「こんな仕組みが最適解なんじゃないか」といえるようになると理想的ではないでしょうか。